まだ今一つパソコン接続の調子が良くないので、Essayは更新できる時にしておきます。
というわけで(?)神田明神に薪能を観に行った。
演目は、世阿弥作の『清経(きよつね)』。
清経は、平清盛の長男・重盛の三男。平家の都落ちに伴って、行く末をはかなみ21歳という若さで入水してしまう。
物語としては、妻の元に現れた清経の亡霊に対して彼女が恨み言を述べ、清経がその経緯や最期の場面を語り聞かせ、成仏していることを告げるというもの。
しかし現実的には、この後から平家一門の存亡をかけた壇ノ浦や一ノ谷の合戦に突入していくわけで、敵と戦い敗れたのならばまだ納得できるが、この時点での清経の自殺に対して妻が恨み言を述べる気持ちは分かる。しかも後の世に、建礼門院から「心憂きことのはじめ」──平家滅亡への始まりとまで言われてしまったというから、ちょっとばかり悲惨だ。
つまりこれも、一種の鎮魂の芸能。
そして、薪能が怨霊慰撫・鎮魂の芸能であるならば、神田明神はその演場として二重の意味でうってつけだろうと思う。
亡くなった将門公を供養すると同時に、怨霊ではないはずなのに怨霊にされてしまった将門公の霊を慰めるという意味で(と勝手に思った)。
取り敢えず、初校ゲラ終了。
あとは無事帰国されるであろう、I川《鬼平》さんの手に届けるだけである。そこできっと『QED 出雲』の話もしなくてはならないと思うので、早くも準備にかかっているが、すでに崇の科白だけで原稿用紙20枚を越えた。
これから一体どうなることだろう……(先行き不安)。